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版画家・海野光弘さんの奥様

海野 花告枝さん

静岡市生まれで生涯静岡市で創作活動をした版画家・海野光弘さん(1939〜1979)の奥様。平成11年に島田市博物館に全作品、スケッチ、版木や日記などを寄贈する。寄贈品の展示や収蔵の必要から博物館分館として整備された旧桜井邸の裏側に、新らたに「海野光弘版画記念館」が建設され、平成12年4月にオープンした。海野光弘さんとは中学・高校の同級生。1940年2月生まれ。静岡市新富町にお住まい。

聞き手/紅林 孝宜 県建設業協会広報部会委員
紅林建設(株)社長・静岡協会
  題材を心に定着させて版画に表現
あたたかく
迎えてくれるなら
紅林 島田市立博物館に海野光弘さんの作品全部と日記などを寄贈したのは3年ほど前でしたね。どんないきさつがあったんでしょうか。
海野 わたし以前から、「主人の作品を全部どこかにおさめたいな、ほんの少しでもいいから、まとめて置くところがあったらいいな」って、ずっと思っていたんです。たまたま平成5年にここの博物館(島田市博物館)の本館で、光弘さんの企画展をやってくださったんです。たいへん評判がよくて全国からほんとうにいっぱい来てくださいました。その博物館の近くの桜井邸が島田市に寄付されたとき、当時の島田市の市長さんの岩村さんから「ここにいかがですか」「できたら、ぜひ」というお話があったんです。
紅林 岩村前市長と海野さんとは以前からお知り合いだったんですか。
海野 ええ、光弘さんの作品を見てくださいまして、「すばらしい」とよろこんでくださいましてね。また、企画展のこともありましたし、「記念館」として、あたたく光弘さんの作品を迎えて下さるのでしたら全部おさめたい、ありがたいことですからお願いしようということになったんです。
紅林 海野さんの代表作品は「民家シリーズ」ですよね。桜井邸も東海道の面影を残す街道筋に建つ古民家です。そこに作品をおさめたっていうことに、何か哲学的なことを感じます。しかも一つも欠けることなく全作品をおさめたっていうのは、価値があるなって思います。
海野 ありがとうございます。
紅林 でも、作品をご自宅からここに運び込む日はどうだったでしょうか、さびしかった。
海野 ええ、それはもう、運送屋さんのトラックを見送りながら、涙が出て困りました。。でも、やっぱりわたしの手元にしまっておくよりも、たくさんのかたがたが光弘さんの作品を見てくださることになるんだっていう、うれしさのほうが大きかったですね。
島田市民俗資料会館(旧桜井邸)
に展示されている海野光弘さんの
作品を鑑賞しながら話し合う海野
花告枝さんと紅林委員
民家シリーズ
紅林 海野さんの版画は、山の風景もあるし海辺もあるけれど、それを見る人のその時々の思いによって、いろいろなとらえかたができるような突き抜けた広さっていうのを感じるんですよ。
海野 光弘さんは、「どんなものでも題材になる」と言っていました。生活に密着しているものや風景、その中に暮らす人たちの姿を、自分の心の中にもしっかり定着させて、それらが訴えかけてくるものを表現したっていうんでしょうか、そういう気持ちがあったんでしょうね。
海野光弘さんの作品「縁通し」
海野光弘さんの作品 古民家や季節の田園風景や海辺の風景を、黒を基調に色を重ねていく陰刻という独特の技法で数多くの作品を版画作品を残した。その黒の部分と明るい色の対比が鮮やか。この技法を使って「日本の風景や風土、そこに暮らす人々とその暮しぶり」をあたたかい眼差しで独特の版画作風に表現した。1979年39歳で急逝。全国で人気があり、海外でも評価が高い。
  紅林 「縁通し」という作品がありますね。古い農家、ここでいろいろな人が代々暮らしつづけて、いろいろな生と死とか、ドラマがある。そんなことを見る人に感じさせますね。
海野 そうですね、代々暮らしてきたおうちにひかれたのは、そういうものがなくなるのは自分としては、いとおしいというんでしょうか、暮らしてきた人たちのなにかを感じたんでしょうね。
紅林 「縁通し」を見ていると、薄暗い部屋の中に人は描かれていないんですが、新聞や灰皿が置いてあったり、テレビがついていたりして、生活臭い。ところがそのむこうの青い田んぼは非常に色鮮やかで透明感があるんですね。また、それが不思議に調和している。見る人それぞれの感じ方だと思うんですが、外の世界がそんなように純粋で透き通っていて、まじり気がなければいいなって。
海野 そう、光弘さんもそう思っていたかもしれないけれど、見る人がいろいろなかたちで見てもらえればそれでいいんじゃないでしょうか。
紅林 こう見てもらいたいという感覚がなかったんじゃないでしょうか。押し付ける気持ちがなかった。作品を見た人も、自分のなかで想像力をかきたてられます。
海野 たしかに、押し付ける気持ちはなかっと思います。
胸が熱くなる
作品
紅林 海野さんが作品を本格的に発表するようになったのは、20歳くらいのとき。お亡くなりになったのは39歳。海野さんとっては短かったんでしょうか、長かったでしょうか。
海野 それはもう、短かったんじゃないかしら。もっと作品を創りたかったと思います。
紅林 というよりも、凝縮されていてそのなかを駆け抜けていったのかもしれないですね。一つのもの、自分の世界をずっともちつづけましたね。
海野 倒れた日でした。北海道のかたからお手紙をいただきました。そのかたは半身不随なんです。がんばって版画をつくっていました。寝たきりで版画を彫っている写真が入っていました。倒れたその日のお昼ごろに届いたんです。で、「こんなにまでして(版画を)やっている人がいるんだ」「ぼくも、もっともっと見ただけで熱くなるような、そんな作品をつくりたい」と、わたしに言ったんです。
紅林 それは自分の作品に対して、まだまだ不満があったり新しい試みやテーマがあったり、やってみたいことがたくさん……。
海野 ええ、ええ。もっともっと、自分の作品を……。
紅林 それが海野さんの亡くなられた本のすこし前に書いた文章にある、『今年は脱民家、脱カヤブキで画面に絵画表現のロマンを入れたい。もう、この絵を見たら、うれしく悲しくなるような…』ということですね。
海野 ええ、自分にしかできない作品をつくりたかった。わたしにはよく分かります。
紅林 海野さんは有名になりたい、版画が売れてほしいという気持ち、あったんでしょうか。
海野 それはあったでしょうね、人間ですから、版画をやっているんですから。よく主人の母に、「きっと、楽にしてあげるから」って言ってたそうですから。
 
紅林 そういうのも創作のひとつのエネルギーになっていたんですね。
海野 ただ、いつもいつもそうではありませんでした。彫り上がって摺りに入るとき、すごく楽しそうで、どういうように仕上がるんだろうって喜んで摺るんです。売るのをいやがっちゃう。売るとか売れるとかそういうことじゃなくて。どう言うんでしようか……、媚びてまで自分の作品を売ろうという気はなかったのはたしかですね。
紅林 海野さんの作品には、普通の時間が普通に流れていく日本の風土のなかにある日本の民家、そんななかでの暮しや生活のありよう、人間の営みが実感できます。そして、そんな当たり前のように流れていく時間や風景を切り取って、少し視点を変えて見ればそこにははかりしれない価値がある、そういうことを表現したかったんじゃないでしょうか。誰かが言っていましたが、作品の評価は現在進行形で高まっていく、と書いてありました。まさにそのとおりだと思います。
海野 見る人の心の中に生きているんでしょうね、きっと、光弘さん。
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